しゃおしゃん便り:つれづれ茶論
2015-02-24T10:31:25+09:00
xiaoxiangtea
自家焙煎茶・焙煎茶の通信販売、卸売、出張販売、出張茶会の店「焙茶工房しゃおしゃん」のお知らせや出来事など。今日のつぶやき:冬来たりなば春遠からじ。
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野生茶を飲む メモ
http://xiaoxiang.exblog.jp/21567542/
2015-01-01T12:59:00+09:00
2015-02-24T10:28:58+09:00
2015-02-18T12:59:42+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
<清らかなお茶に、心身が整えられた>
先日の善隣館茶会で、宋さんの雲南野生茶を久々に淹れました。1年2か月ぶりのことです。
茶壷から流れ出る茶湯を見て、なんて美しいんだろう、と心が吸いこまれました。
まるで、深山の清冽な湧水の流れを見ているようでした。
ご参加の皆様は、既に、静まり返っています。野生茶への期待もあるのだろうけれど、それだけではないように思います。野生茶自体が、場を静寂に導いているのではないでしょうか。
皆様の聞香杯に注ぎ終え、どうぞとおすすめします。立ち上る香りは、柔らかく清く力強い。体の中が動き始める。背骨を下がりながら背骨周りを内圧で開いていき、命門を開こうとする。私は下から丹田へと持ち上げる。丹田で上からと下からの気がぶつかり、ボッと熱くなり熱が帯脈に広がる。汗が出てくる。一方、調子の悪い鼻周りでも、眉間の奥、副鼻腔が動いてくる。詰まりを流そうとしているように感じました。
場は、あくまでも静寂。それぞれがご自分のペースで香りを聞いたり杯の茶を飲んだり。というか、香りを聞き終えた後、あるいは、茶を飲み終えた後の、瞑想をするように目を閉じていらっしゃる時間が長く続いています。
ふっと我に返ると、場は一層落ち着いています。それぞれに、このお茶を飲んだ感動というようなものを抱いているように感じます。私から、お茶を飲んでの自分の感覚を少し話すと、「傷めていた背中が、痛くなくなった」(50代女性)とか「私、手がいつも冷たいんだけど、ほら、暖かくなってるの。たまげたわ。」(80代女性)との声も上がりました。他の方々も、温まってきた、などとおっしゃりながら、ニコニコしています。
<静寂をよぶ茶>
ある回では、初めてのお客様が、席に着いてからずっと、お話が止まらない感じでした。1番目2番目のお茶でも、頭の中はお話で一杯で、静まりませんでした。私も、お話を受けながら、会を進めていきました。
でも、この野生茶は、他の同席のお客様は皆じっくりと楽しみたいだろう、と思い、淹れ始める前に、お話ししていたお客様に向かって申し上げました。「このお茶は、1年に一度くらいしかお持ちしないお茶です。雲南の野生のお茶です。お茶の味わいを存分に感じるには、静かに飲むのが大切だと思っています。同じお茶でも、テレビを見ながら飲んだ時には感じられない味わいが、静かに飲むと感じられることがあります。このお茶の味わいは存分に感じたいので、ご一緒に静かに飲みましょう」。私の気持ちをわかってくださり、お話は止みました。お茶を味わいながら、落ち着いた静かな時間が流れました。ただ、その方は、話を制止されて気分を害していらっしゃるかな、それとも、話したくて仕方がないが我慢していると言う感じかな、と思い、様子を拝見してびっくりしました。先ほどまでの雰囲気とは全く違って、お茶を飲みながら静かに遠くを見るような表情をしていらしたのでした。その様子は、静まり返っていました。
<茶からいただいた無償の愛~茶の葉は自分の命を投げ出して、飲み手の心身を救ってくれる>
この日、野生茶を淹れながら、つくづくと感じたことがあります。それは、お茶に対しての感謝です。
このお茶を飲むと、なぜか、体が温まってきたり、整体されるように開いて来たりほぐれたりする。茶の葉の力なのだと思う。お茶を淹れる者としては、ただひたすら、この茶の葉の力や味わいを損なわないように、飲み手に届けることだけを考えるべきだと思う。
私は、体が温まる、とかほぐれる、というのは、体が本来の巡りを取り戻すことだと思う。巡りを取り戻すというのは、あるべき姿勢となり心持ちになること。そうすると体も心もとても楽になる。このお茶を飲むことで、体が温まりほぐれる。お茶があるべき姿勢を思い出させてくれたのだ。あるべき姿勢というのは、お茶を飲まなくても、気功をしたりヨガをしたり、きっといろいろな方法でたどり着ける。普段から気の通りがよい人、本来の姿勢となりよく脱力して気が充実している人は、このお茶を飲んでも特別体の変化がないかもしれない。しかし、多くの人は、どこか巡りが悪かったり固まっていたり姿勢がゆがんでいるのではないか。何かで正してもまたゆがんでくる。お茶を飲むだけでそれが正されることはないが、ゆがみに気づいて直す機会にはなる。お茶が気づきを与えてくれているのだ。
しかしこういうお茶は多くはない。命の力が強いもの、命の力が何かに損なわれていないもの、そして体にすっとおさまるような作りをされたお茶だけが、このような心身の変化をもたらす。
茶の葉は、茶の木から芽吹いて生き生きと伸びようとしていたところを摘まれた。そのお茶の命の力、が、私の体に入り、私の体を温め歪みを直してくれる。茶の葉は、自分の命を投げ出して、私に教えてくれている。茶の葉からの無償の行為を思う時、ただただ、茶の葉に感謝する以外方法がない。ただただ、茶の葉の愛を受け取るしかない。
茶の葉に報いるとしたら、それは、茶という存在に対して、敬意をもって接すること。そして、茶からいただいた愛に感謝しながら、よりよく生きて行くこと。
私は、お茶と出会い、お茶と縁を結んだと思う。よしもとばななの小説「アナザー・ワールド」に、「植物は、ひとつの種との関係を確立すると、その種に関してはずっと仲良くいてくれるようになる。・・他の土地に生えているその植物でも、連絡が取れているから、なにも変わらない。だからこそ長く生きている木はものすごい力を持つようになる」と言う言葉があった。それと、小泊先生がおっしゃったように、お茶は危機になると誰かに憑りつく、というお話が、どこか符号するように思い出されました。私が気仙茶のことに関わっているのは、気仙の人々のお役に立てれば嬉しいと思う気持ちももちろんあるけれど、それと同時に、茶という植物と私との間の縁というか関係の中で、せめて何かできることをさせていただきたい、という気持ちでもあるように思います。(2015.2.18)]]>
気仙の無肥料のお茶をTさんと飲んで
http://xiaoxiang.exblog.jp/21569993/
2015-01-01T12:22:00+09:00
2015-02-24T10:29:45+09:00
2015-02-19T12:22:34+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
「これは、いいお茶ですね!」一口目でTさんの顔がほころんだ。二口目で「これは、全くノンストレスのお茶ですね!」と喜んでくださる。とても繊細な味わいだが、飲み進めると「舌にずっといる」と言った。「舌の上を刺激して、唾液を引き出しますね」と私も答えた。「余韻が深いです」とTさんも言った。
そうやって、集中して飲み進めると、このお茶はもう、香りだけでもぐんと体を巡る。確かに、気を下げるというよりも元気よく動く感じなのだが、それでも手先にまでよく巡りを感じた。口感・テクスチャーもとても柔らかい。この芳醇な感じ、リッチな感じは、他の飲み物なら一体何に相当するだろうか。
このお茶を飲む度に、私は感動する。火入れしたロットでは、一層、お茶にこんなことができるのか、と感激するほど、気を下げ、めぐり、深い感動をもたらしてくれる。そのようなお茶が、岩手で作れることがとても嬉しい。
「でも、この味を拾える人は少ないでしょう」とTさん。確かに、この味は、受け止める気持ちがなければ、わからないかもしれない。わかりやすい味わい、濃い味、派手な味の方にひかれると、このお茶の真価はわかりづらいかもしれない。でも、この味わいを受け止めるには、特別な訓練や多様なお茶を飲んだ経験などは、特別必要がなく、ただ、虚心に受け止めるだけでよいのだと思う。このような味わいを受け止める人は、思った以上に多いと、日々のお茶のご紹介の中で感じている。
そのような人にとっては、このお茶は、このうえない感動の液体となる。そして味だけでない、この巡りの感覚や清らかな佇まい、のようなものは、このお茶ならではのもので、かけがえがない。
このような感動の液体を作ることができる条件が、放置茶園の一部には、ある。量は少ししかできないが、ほんの少しでも、感動の液体ができるなら、そして感動を多くの人と共有できるなら、それで充分すぎるくらいだ、と、本当は思っている。
(2015.2.19)]]>
茶の命を飲むこと、について
http://xiaoxiang.exblog.jp/21569985/
2015-01-01T12:16:00+09:00
2015-02-24T10:30:44+09:00
2015-02-19T12:16:41+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
<お茶の命の力>
私にとっては、飲んだ時に、心身を温め、気を下げ、体をほぐし開いていくお茶は、世の中全般を見るとほとんどない。しかし、私がご紹介しているお茶は、ほとんどがこのような反応を私にもたらす。(なぜ、そのような体の変化があるのか、いくつかの要件はたぶん当たっているのだが、完全にはわからない。)例外は気仙茶熟成火入れと、白葉単ソウ、黄枝香単ソウ。これらは、原料茶が、土に何か滞らせるものを持っている。(土に触った時とほぼ同じことが、飲んだ時にも感じられる。焙煎でだいぶ排出したが、どうしてもまだ残っている)それでも、陳化と焙煎で、気を下げるところまではできていると思っているので、ご紹介することにしている。
世の中の多くのお茶が、私の肩を重くし、こわばらせる。気が丹田に下がる感じは、ない。
有機栽培のお茶は、巡りほぐし温めることがあるが、気が下がらず上半身に上がってしまうものが多い。後頭部から肩にかけても脈打つようになる。
宋さんの作るお茶も、私が焙煎しうまく出来たお茶であっても、いずれしゃおしゃんのお茶は、まず丹田まで、前か背中側で気を下げて行く。丹田から温まっていき、全身を巡り、体が軽くなる。
(宋さんのお茶は、気を下げて行く力がとても強い。そして、平らかな心持ちになる。このようなお茶は私には、まだまだ作ることができない。これは、全人的な修行である。それにしても、お茶は、作る人の心持ちが、まるで転写されて一杯の茶として現れるというところが、最も面白いと思う。焙煎というのは、水分が・・とか香りが・・ということでなく、つまるところ、作る人を転写するという仕事だと思っている。そう思うと、飲む人にとってはイヤかもしれないが?)
以前は、宋さんや私のお茶を飲んで巡りがよくなり温まるのが、なぜ持続しないのか、このようなお茶を飲むことの体にとっての意味は何なのか、わからなかった。が、今は、ゆがみを正し、体を整える契機だと理解している。そして、そのようなことができる飲食物として、とても貴重なものだと思っている。
私にとって、お茶を飲む意味はここにあるし、ここにしかない。茶にとっての香りも味も、心身を整える、という側面と比べたら、二次的・副次的なものと私は考えている。
いや、少し違うか。茶は、心身を整えるものとしては、格別に美味しく手軽に飲めるもの、だということ。
「心身を整える」という力は、実のところ、全ての植物が持っていると思う。いやもしかすると、全ての命が持っている、ということかもしれないが。畑の雑草と呼ばれる草を摘んで湯をかければ、焙煎前のお茶のような巡りや温まりを感じる。清らかな勢いが備わっている。あとは焙煎して整えてやるだけでよいはずだ。有機栽培だったり無肥料栽培のものの中には、定期購入しているYさんや、最近であったTさんの野菜をはじめ、あるいは我が畑の野菜のように、口にすると温まり巡りほぐれる、と感じるものもある。しかし市販の大方の野菜は、これもまた、肩がこわばったりする。
植物を口にした時に起こる、私の心身が整おうとする、という現象は、何なのか。今の段階の私の理解では、植物の命に私の命が呼応していて、植物の命が私の命に対して「心身を整えよ」と信号を送っている、と思う。
では、大方の野菜やお茶で、肩がこわばるのは何か。これは、気の通り道が詰まってしまう状態だが、体が不調になり、多く取り込まないように自らを防御しているのではないか。また、心身を整えよ、という信号を、植物の側では何らかの理由で発せられなくなっているのではないか。
命との出会いというか命の交歓について、興味深い話がある。
内山節さんのキツネ話の中に出てくる、オオサキの話のくだりだ。昔の人達は、ご飯を食べるときに黙って食べた。ご飯を食べるというのは、食物の命(ミ)を食べることであり、いろいろおしゃべりして食べると、見た目は同じでも、ミのないカラ(殻)だけになってしまうのだという。子供がおしゃべりしながらご飯を食べていると「オオサキが来るぞ」と脅かされたのだそうだ。命(ミ)が栄養になる、という考えだという。
思い当たる節がある。しゃおしゃんのお茶でも、テレビを見ながら等、集中力のない状態で飲む時と、静かにお茶に向き合って飲むときでは、心身の感じが全く違う。テレビを見ながらでは、心身の変化も感じず、反応が薄い。テレビを見ながらお茶を飲む時、お茶のミでなく、抜け殻(カラ)を飲んでいるからなのではないか。つまり、心身を整えるのは、お茶の命(ミ)なのではないか。
また、農薬・化学肥料を投入する慣行栽培のお茶は、何らかの理由で、お茶の命(ミ)が伝わらず、心身を整える働きがなくなっているのではないか。命が伝わらないのは、生命力が弱いから、あるいは、滞りや詰まりがあるのではないか。そういうお茶を飲むことは、むしろ飲み手にも滞りや詰まりをもたらすことにつながりやすいのではないか。
<心身を整えるお茶が飲みたい>
気仙で摘んでいる、無肥料のお茶も、焙煎すると心身を整えようとする働きをする。
このようなお茶は、余韻も深く、体全体が喜び、深い感動が起こる。
このお茶は、特別な山奥のものなどではなく、人里の、畑の脇斜面の畦畔茶だ。唯一つ、気配りをしているのは、周辺、特に上部から、農薬・化学肥料など、化学的なものが流入しないこと、だ。そして、成長や味わいのために、何かを投入するということは、たとえ有機肥料であっても、していない。それだけで、このような力強い茶ができ、深い感動があるのだから、お茶の木が自分の力で発芽した葉を、少しずついただくならば、特別な場所でなくても、一定の力はあると思う。それは、そもそもお茶の木が・植物が、備え持っている力強さなのだと思う。
その力強さや清らかさを、人間がお茶を「育て」る時に往々にして損なってしまう。育てる理由が、人間の都合・欲ならば、である。そのようにして作られたお茶を飲むことの意味はどこにあるのだろう。昔の人は今のように葉をたくさん使ってお茶を飲んでいただろうか。貴重品として少量で長く飲んだのではないか。
私は、心身を緩め感動をもたらすようなお茶を、飲みたい。体をこわばらせるようなお茶を飲むよりは、水を飲む方がずっといい。心身を開くお茶を、集中して飲むと、深い感動が何日も持続する。私はそういう飲み方をしたいし、人にもお勧めしたい。このようなお茶との合一には、官能的とさえいえるほど、深い感動がある。人間が、そういうお茶を少量ずついただくようになったなら、茶の木も人も喜びにあふれるんじゃないかなと思う。(2015.2.23)
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茶が心身を整えるということについて(Mさんへ)
http://xiaoxiang.exblog.jp/21569989/
2015-01-01T11:57:00+09:00
2015-02-24T10:31:25+09:00
2015-02-19T12:19:39+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
以下に掲載しておく。ご興味があれば・・・
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このたびは、お茶のお求めありがとうございました。
お体の冷えによいお茶や、夜ぐっすり眠れるお茶がないか、探していらっしゃるのですね。
私のご紹介しているお茶について、どなた様にも「必ず冷えに効く」とは言えませんが、私自身が感じているいくつかのことを、お伝えしてみたいと思います。
1 体を温めるお茶とその飲み方
私は、雲南黒プーアール、邦崴青茶、ムーンティー、健一自然農園の紅茶や烏龍茶など、ご紹介しているお茶はどれを飲んでも体が温まる感覚があります。
より確実に体が温まるように、と思う時は、
・温かいお茶(熱くてもよいですが、温かい、というくらいでも)
・静かにして飲む。(テレビ、ラジオ、パソコン等々を止める)
・できるだけ、口の中に数秒、お茶を含んでから、飲みこむ。
・体を緩める(脱力する)
というようなことを心がけています。
・ゆっくり香りを聞き、深呼吸する。
なども更によいと思います。
そして、一口飲み下したら、しばらく静かにしていることも大切です。
上のような飲み方をすると、内圧で背骨周りが広がったり、腰が広がったり、肩や胸が広がる感覚など出てくるかもしれません。私はあります。そうしたら、内圧・体の動きに任せてください。一口飲み下して、体の中で沸き起こる動きを待ち、それに任せることに集中します。
体の反応は、飲み下す以上に、鼻や口腔内の粘膜からの信号?による方が早いように思いますので、香りを聞くことや、口に含んでおくことは、大切です。
また、飲み下したときは、背骨に沿ってお茶が降りていくような感じもとらえられるかもしれません。その時は背中がよく温まると思います。降りていくのを受け止めるような感じで、下からおへそに向かってひきあげると、お腹(丹田)でぶつかって、丹田から体全体が温まってきます。これは、気功の考え方にもつながっています。
お茶会の時の参加者の方との話でもありますし、最近考えていることでもありますが、
「お茶を飲んで体が温まるとはどういうことか?」
今のところ、それは、「体が緩み、巡りがよくなる(気、なのか、血液なのか、リンパなのか、はたまた何なのかはわかりませんが)」、ということではないかと私は思います。
体を緩める方法は、様々あると思いますが、飲食物が持つ信号を受け取って緩めるというのも一つの方法だと思っています。
私の経験上、無肥料栽培か有機栽培のもので勢いのあるもの、を飲食する時、体が緩み巡り、温まるようです。(無肥料栽培・有機栽培というものなら必ず、ということではなく、一つ一つ、飲食する時の感覚をつかまえるようにして、自分なりの判断をするべきかと思います。)
私からお勧めするお茶は、どれも、そのような素材のお茶です。
これらを飲食する時、なぜ体が緩み、温まるのか?は、目下の私の研究課題です。
2 眠りやすいお茶、について
眠る前には、頭に上っている血?気?を下げることが大切です。寝る前にパソコンを見ない、静かにする、などの、寝付きをよくするアドバイスも、そういう趣旨だと思います。
お茶にも、頭に上るお茶、腹に下がるお茶があります。私のご紹介しているお茶でも、焙煎前は、頭に上る(中国語で「旺」とか「浮」)ものが、焙煎後は腹に下がる(「沈」)ようになります。というか、腹に下がるお茶をつくるために、焙煎しているのです。
腹に下がるお茶は、落ち着きます。体も温めるので眠りにつきやすくなります。
腹に下がる、という感覚も、お茶に集中しないと得られません。1で書いたようにして飲めば、感じていただけるのではないかと思います。
よく眠りを妨げるのはカフェインだと言われます。確かにカフェインへの反応は人それぞれ、体質によって違うようです。ただ、私の経験や感覚では、カフェインがあっても腹に下がるお茶もあります。今回お送りする中では、黒プーアール類にはカフェインがほとんどないかもしれませんが、邦崴青茶にはあると思います。でも、邦崴青茶も、私にとっては腹に下がり、眠りを誘うお茶です。
こればかりは、ご自分で飲んで確かめていただく以外にないと思います。
3 一日の始まりにふさわしい、元気になるお茶、について
これも、結局は同じなのです。脱力と、気の充実は、表裏一体だと思われます。ただ、一日の始まりには、多少「旺」でも気が強いものがいいかな、と思いましたので、ムーンティーをお勧めすることにしました。
4 お茶を飲む順番
1~3のように、お茶を飲むことで体に働きかけようとする時、複数のお茶を同時にちゃんぽんで飲むことはお勧めしません。順番に飲む際には、飲み順に配慮してください。というのは、より「沈」な邦崴青茶を先に飲み、次にムーンティを飲むと、単体では「沈」なムーンティーが、「浮」となり、頭に上って寝付けなくなることがあります。体を温めるという意味でも落ち着きません。また、拮抗しているお茶を続けて飲むのも、混乱の素です。お気を付け下さい。
今回お届けするお茶では、古樹黒プーアール≒邦崴青茶>雲南黒プーアール>ムーンティー、だと思います。
ただ、ムーンティーは強いところ(補足:これは「暴れ」だと思われます。もう一度焙煎したりすると落ち着くのではないかと思います)があるのでご注意を。
5 個人的見解
今まで、長々と書いてしまいましたが、全て私の経験や感覚の話であり、個人差があることだと思います。このお茶を召し上がっての効果を宣伝するものではありません。一つのご参考になさってくださいませ。
体が冷えていること、体が温まること、は、様々な要因があることでしょう。私は今回、その中の一つだと思われる「体を緩めること」に着目しました。
定例のお茶会にいらしているお客様が、「お茶会に参加すると、いつも冷えている手足が温まる」とおっしゃっていました。始めは、お茶を飲んで体が温まってくるようだったのですが、回を重ねるうちに、会場に入っただけで体が温まると気づいたそうです。お茶会の前には、体が緩むのだそうです。
この事例は、お茶を飲まなくても、体が緩みさえすれば温まることを示していると思います。その意味では、お茶以外でも体を緩める方法があればよいのですし、日頃から緩んでいる人は、取り立ててお茶を飲んでも変化が感じられないかもしれません。
しかし、実際は、体を緩めること、というのは難しいことではないでしょうか。そのような中で、私のご紹介するお茶は、体を緩めることを、味や香りよりも優先して作っているものであり、試す価値のあるものだとお勧めしたいと思います。
(2015.2.23)]]>
「いわての風」寄稿文
http://xiaoxiang.exblog.jp/20636088/
2014-01-01T14:30:00+09:00
2014-04-30T15:42:30+09:00
2014-04-30T14:40:39+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
ご覧くださいませ。(今後も、整理して増やしていきます)
2014.3.9 気仙のお茶会で語らう
2013.11.3 気仙茶がおいしい訳
2013.7.7 3年ぶりの気仙茶づくり
2013.3.24 気仙茶は「生きた文化財」
2012.11.25 先祖の足跡が残る気仙
2012.8.5 復興に向かう気仙茶
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気仙茶のこと、「いわての風」に書きました。
http://xiaoxiang.exblog.jp/16715733/
2012-08-30T08:19:00+09:00
2012-08-30T08:22:13+09:00
2012-08-30T08:19:13+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
「いわての風」は、県内で現在17人の執筆者が持ち回りで書いているコラムです。
だいたい4か月に一度ペースで寄稿の機会をいただいています。
私は、2007年4月から書いていますので、今回の文章が、22本目でした。
お読みいただきたく、文章を掲載します。(写真データと、文章です)
青空の下、気仙の茶畑に枝を切る音が響く。お茶の木の剪定だ。地元気仙の人、遠方からのボランティアも一緒に作業する。男性陣の奮闘には及ぶべくもないほど非力な私も、ここ数週間、週末は炎天下の作業に汗を流している。
気仙では、例年剪定が行われてきたが、今年は意味合いが少し違う。葉を除去することで、樹体内の放射能を減らす目的があるからだ。
6月、製茶工場稼働前の検査で、サンプルから基準をわずかに超えるセシウムが検出され、県が出荷自粛を要請した。震災の影響で工場が稼働しなかった昨年に続き、2年連続、製茶ができなくなった。
気仙で自家用茶を楽しんでいた人も、購入して味わうのを楽しみにしていた人も、今年こそは、と待ち望んでいたはずだが、残念ながら今年も気仙の新茶はできなかった。
津波、原発事故。これ以上ないダメージを受けた気仙茶。このどん底の中で、しかし、気仙茶を愛する地元の人たちの新たなつながりが生まれ、未来への力強い歩みが始まっている。
先人が大事にしてきたお茶の木やお茶文化を絶やしたくないと、手づくり茶のさまざまな味わいを模索する人々。
そして、あらためて先祖伝来の200年を超えるという茶樹からお茶を作って紹介したい、という人々、人手不足で荒れてしまったお茶の木のやぶを払って再生しようとする人々…。
気仙茶を愛し、さまざまな活動に取り組もうとする人々が緩やかにつながる「気仙茶の会」もできた。それぞれの活動の中身は違っていても、共通するのは、家族や地域の記憶のよりどころであり文化である気仙茶を、守り、その誇りを次代へ引き継いでいきたいという思いだ。
気仙を訪れた茶産地の専門家が「気仙では、お茶やお茶の木と人が一緒にいる感じがして、うらやましい」とおっしゃった。
気仙茶は、椿油づくりや養蚕、田畑や海の仕事など、身の回りのものを手をかけ自給してきた、気仙の人々の生活文化の一部であり、象徴と言えるかもしれない。
海の恵みと、陸(おか)の田畑や山の恵みを物々交換しながら、お金を介さずそのままにいただいてきたという暮らしの「豊かさ」を思う。
「そんなお茶の木から作られたお茶は、味うんぬんは関係なく、きっと人を幸せな気分にしてくれるのではないかと思ったりする」と、その先生はおっしゃった。こんな風に存在するお茶は、今の日本の中ではとても珍しいものなのかもしれない。
先日、陸前高田で、津波を受けたお茶の木を見た。元々はよく茂った木で、このお茶の木から作った自家用茶を1年通して飲み続けてきたが、津波を受けてほとんど枯れてしまったという。
再生へのいちるの望みを持って、根元から切ったというお茶の切り株から今、まぶしいほど緑がつややかな、勢いのよい新芽が何本も芽吹いている。
そうだ、気仙茶の根っこは強いのだ。以前のように茂るために、あとどのくらい時間がかかるのかは分からないが、今出てきた新芽は、確実に葉を増やし、大きくなっていくに違いない。
先月開催された気仙茶の剪定講習会も、30人近い人が集まり、熱気のある会だった。年配の方も多く、皆さん、家のお茶の葉で作る自家用茶を、長年楽しみにしてきた方々なのだと思った。
放射能対策でお茶を深く切り詰めなければならないが、「この機会にお茶の木を若返らせっぺし」と言い合い、お茶づくりの再開を誓った。
剪定作業の合間、木陰でひと休みする。風が心地よい。一緒に作業をしたTさんは私たちの姿を見て「ご先祖さまたちが、同じようにこうして木陰で休んでいる姿が重なり、タイムスリップしたような気持ちだった」という。
気仙のお茶の木の周りを人々が行き去る。気仙のお茶の木は、100年200年と生き続け、その寿命は人の何世代にもわたり、人が世を去ってもなお、お茶の木は残る。
そのことに、切なさと、それ以上に深い安堵を覚えながら、お茶の木と向き合う作業を続けている。
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善隣館茶会のこと
http://xiaoxiang.exblog.jp/16668266/
2012-08-20T23:50:00+09:00
2012-08-24T10:54:09+09:00
2012-08-20T23:50:47+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
本当に、善隣館茶会は、とても素敵な時間と空間になっていると思っています。
語学教室で使われている部屋で、英語の教材が貼ってあったり世界地図があったりする場所が会場で、テーブルのしつらえも布をかけただけの簡素なもの。器物も特別なしつらえはなく、毎回ほとんど同じものを使っています。
外から覗いてみただけでは、それが素敵な時間や空間とは、お世辞にも思えないかもしれません。
でもでも、私はなんだかとても好きなのです。
これは、ひとえに、お集まりの方々が素敵なのと、善隣館という場の力じゃないかなあ、と思っています。
拙い文章ですが、ご覧いただければ幸いです。
お茶屋の時間 第十七回 善隣館の中国茶会
盛岡の中心部に「善隣館」という文教施設があります。戦前から宣教師が滞在し、人々の生活向上を願って行われた活動が前身となり、やがて「キリスト教センター善隣館」が誕生。英語・中国語などの語学教室、更に「文化交流の場」としての役割を果たしてきました。その活動は人種、信仰、年齢に関わらず広く人々に親しまれ、「キリスト教センター善隣館」が道路拡張等により閉館された2004年からは、引き続き「NPO法人善隣館」として運営されています。
その善隣館で、お茶の会を開くようになって、12年目を迎えました。初めて打ち合わせで善隣館を訪問した時、なんだかとても気持ちが晴れ晴れと自由になって、こんな場所があるんだなあ、と深く感じ入ったものでした。会の規模はその時々で変化し、現在は毎月30名ほどのお客様(約10名の会が一日三回)をお迎えしています。毎回完結型の会ですが、継続の方が多く、一方、初めての方や久々の参加の方もある自在な会です。
茶会といえば、器物やしつらえに趣向があり、それを鑑賞しながら亭主のもてなしを楽しんだり、また特に中国茶では、貴重なお茶を淹れたり、お茶への理解を深めようとすることが多いようです。一方、しつらえやお茶の来歴に関わらず、お茶を十全に感じて楽しみ、また同席の人々と唯一無二の時間を共に生き喜べることは、お茶会の醍醐味であり、その境地は誰もが理想とするところだと思います。
善隣館での茶会の会場は、語学教室の一室です。壁には黒板や世界地図が掛かる中、会議用のテーブルをロの字にセットし、お茶の道具を並べた簡単なしつらえで、会の内容も特段知識や技術をお教えしたり、お茶を点てる修練ではなく、季節や気分に合わせたお茶2、3種とお茶請けをゆるゆると楽しむだけ。おまけにお茶は当店の数少ないアイテムが中心ですから、2、3か月前と同じお茶を淹れることもあります。唯一心がけているのは、お茶は体にやさしく清らかであること、そして茶会の最後には、前段と比べて、より落ち着くお茶を出すこと、だけです。なので、優雅な茶会や中国茶の勉強へのご期待には残念ながら応えられないと思います。
しかし、この頃の善隣館茶会は、本当によい茶会になっている、と私はつくづく思っています。参加者の皆様の集中とリラックスが絶妙なのです。私と参加者の皆様の気持ちも直に繋がっている感じです。お茶を中心とした、生き生きとした場の緩急の流れを楽しみ、「お茶の時間」を共に生きているような気がします。
参加者の皆様とのやりとりは自由闊達で、話はよく脱線します。しかしお茶を前にすると、皆さんすっとお茶に心を添わせ、集中して香りと味、心身に沸き起こる感覚を楽しむ。お茶を淹れ始め、場が収まりしんと静まり、響くのは湯を注ぐ音や茶碗を動かす音だけ、という時も、沈黙を嫌わずゆったりとお茶を待っている空気が伝わってきます。私自身、以前は「何かを得て帰ってもらわなければ」「お茶に集中しなければ」と思うあまり、場に身を任せられませんでしたが、楽しみにして参加してくださる方々に包まれ、少しずつ安心が深まってきました。だからでしょうか、この頃お茶がおいしく淹れられるように思います。
久しぶりにいらしたお客様が「お茶の味が、皆さんの集中により、一層深くなった」とおっしゃいました。参加者の皆様の、お茶会を大切に思う気持ちが会を作り上げ、更には時間の経過と共にお茶の会も「熟成」してきているのだと思います。そして何より、長きにわたり「人々がその善意を持ち寄れる場所であった」善隣館という場に宿る力が、お茶の会を育てているのだ、と思います。
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自分の歌を歌う
http://xiaoxiang.exblog.jp/16681029/
2012-01-01T00:54:00+09:00
2012-08-24T10:56:20+09:00
2012-08-23T13:53:54+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
たま~に、そのようなお問合せをいただき、そのたびに、当店にはないことと、入手できそうなところをご紹介しています。
お客様が必要なものをそろえてこそお茶屋なのかな、と思った時も、昔はありました。
お茶席を設けるとき、演出的にこんなお茶があったらよいのかもな、と思いながら、しゃおしゃんのお茶ばかり淹れています。
自分にとっては、自分で手掛けたお茶やしゃおしゃんで扱っている宋さんのお茶以外を、茶席で淹れることは、想像できないのです。
間口の狭い、不便な店であり、不器用な淹れ手です。
自分でも、どうしてかな、と思っていたのですが、
あるとき、二人の歌い手を聞いていて、ふっと思いました。
一人は歌がうまくて、カバー曲も、作家の作った彼のオリジナル曲も、心に届き癒され励まされて、大好きな歌手です。
もう一人は、自作曲を。どんな歌でもうまく歌える人ではないのだと思うけれど、その自作曲に、心を揺さぶられました。
その時妙に納得したのでした。私は、自分で作った歌を歌う歌手なのだな、と。
自分から沸きだし、お茶に向き合い生み出したものを、自分の声で歌って届けたい・・・・それが、お茶の仕事の核になっています。
そう考えると、お茶を淹れる役割の人が、いろいろなところから来たお茶を美味しく淹れる、ということの意味も、よくわかってきました。それが、お茶を淹れる人の表現であり歌なのでしょう。
作者よりもうまく歌っているな、と思うようなカバー曲も、たくさんありますよね。
でも、作者だから表現できること、作者にしか表現できないこともまた、あるのだと思います。
こういうとカッコよすぎるかもしれませんが、私は、シンガーソングライターなんですねえ。
自分で作った歌を歌いたいし、それしか歌えない、そんな歌い手なんだよなあ、と改めて納得しています。
シンガーソングライターの歌も、いろいろな人が演奏し、口ずさむように、私が作ったお茶も、いろいろな人が淹れてくれたらうれしいです。
大きな舞台で、次々と歌手が登場するフェスティバル。きらびやかな演出で楽しませるステージがある一方、ギター一本で歌う歌もある。
恋人にささやく愛の歌もあれば、母が子に添い寝して歌う子守唄もある。
お茶にも、様々な場があり表現があるはず。そう思います。
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お茶と心身
http://xiaoxiang.exblog.jp/16671233/
2012-01-01T00:00:00+09:00
2012-08-24T10:56:51+09:00
2012-08-21T17:03:06+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
ちょっとまとめてみたくなりました。お付き合いくださいませ。
「今ここにいる」。
いつだって、今ここにいる、はずなのに、私はともするとふわふわと忘れてしまっていることがあります。みなさんはどうですか。
今ここにいる・・・というのは、文字で見るとなんということない当たり前のことなのですが、その実感は、ふいに訪れて圧倒的なものだと感じています。
それを初めて文章で読んだのが、私にとっては森下典子さんの「日日是好日」でした。
そして、そのような境地は、茶道、お茶のお稽古の場で、形に添った修練を通してはじめて達することのできるものなのかなあ、と、あこがれたものでした。
一方で、この本を読みながらずっと、少し不思議に感じていたのは、茶道の場では、どうして、お軸やお菓子のことはその場に応じて吟味して選び、飲む側もその心づくしを受け取るのに、中心であるはずのお茶の、葉の来歴やお茶の木のことなどは特別触れられなかったり、そのお茶を服した後の感想が味覚のことに終始してしまうのだろう、ということでした。
その後、残念ながら茶道のお稽古に通うことはありませんでしたが、お茶を飲んでいる時、また、それ以外の時にも、不意に、圧倒的な幸福感を、何度か感じたことがあります。それは、森下さんが体感し描いたものとは違うのかもしれませんが、私にとっては同様に「今ここ」を感じた感覚でした。
岩本さんにその感覚がわいてきた時、召し上がっていたのは千年古茶香竹筒茶の、3煎目くらいだったそうです。
このお茶は、淹れ始めた時、そして一煎目をみなさんが飲み終えたころには、場が本当に静まって、私の心も静かになってきました。きっと皆さんもそうだったのでしょう。
そして、2煎目くらいからでしょうか、お一人お一人の聞香杯にお茶をお注ぎするとき、心の中でお一人お一人に向かって感謝の言葉を言っていました。なぜだかそういう気持ちが沸き起こってきたのでした。
そのことが岩本さんの感覚に何か影響があったのかどうかは、わかりません。全然影響がなかったかもしれませんし、いろいろなことが関連していて、理由は一つではないのだと思います。それでも、そんな様々がぴったりと合って、こんな感覚を得られたというのは、やっぱり奇跡のようなことだし、同席してお茶を淹れた者としてはとても嬉しいことです。
いろいろな装置によって、人は今ここを感じることができるのだと思います。
形に添って修練する無心の時間が、その装置となることもある。
心をこめたしつらえや、言葉を失うほど美しい風景が、その役割を果たすこともある。
同様に、飲むお茶そのものが、「今ここ」を感じるための装置となることもあるのだと、私は思っています。
私は、お茶を飲む時、「何を飲むか」を大切にしていきたいと思います。
修練で自らの中から出来上がっていく世界や、しつらえの中に身を置いて沸きあがる感覚がある一方、飲む「何か」が、外から内に入って導いていく世界もあると思うのです。
そこには、淹れ手と飲み手だけでは完結しないもの-茶の葉を通してつながる土があり無数の微細な命があり水があり大気があり茶の木があり、お茶に手を加えて作り上げる人がいます。
その煎じた滴を飲むことで、まず生体が開かれたり弛緩して落ち着くべきところに落ち着いたり、逆に縮まったりざわざわしたりすることもあるように思います。それは、私の中では、お茶の木の状態、環境の清濁と、製茶の方法や処理と、リンクしているように感じています。それも、たぶん例外なく。清らかな環境で健康な茶の木から摘んだ葉で、適切な乾燥をしたお茶は、私の体を開き弛緩させ落ち着かせてくれるのです。
そして、体が開かれ弛緩して落ち着いたとき、精神が静まりあるべきところに落ち着く。そのような心身の動きによって、開かれ導かれていく地平があることが、私がお茶を淹れる驚きであり尽きない魅力です。
お茶を飲み、鼻で触れる香りや、口の内側に接する茶湯から沁み渡っていく全身の感覚に身を任せながら、そのお茶を感じることができ、つながることができる体の感覚を自分が持っていることに気づき驚きます。お茶を通して世界とつながり溶け合うような喜びがわいてきて、それが自分の「今ここ」を照らすのかもしれません。
もう10年近く、千年古茶を毎日飲み続けてくださっているお客様がおっしゃいました。
「このお茶に出会うまで、飲み物にこんなことができるなんて思ってもみなかった」と。
「お茶」の中にお茶があること。
茶道が形作られた頃のお茶の木の在り方と、現在のお茶の木の在り方や生産は、ずいぶん変わってしまったと思います。
昔は、とりたてて問わずとも、お茶という飲み物が持つ力は、お茶でさえあれば、みなそれぞれにあったのかもしれません。が、今は、どうでしょうか。
今の世の中で作られているお茶の中に、心身を開き鎮めることのできるお茶がどれくらいあるのかは、わかりません。
もっと、お茶にそのようなことを求めている人自体、少ないのかもしれませんが。
ただ、もしもそのようなお茶を求めるとしたら、それは決して秘境の特別で高級なお茶でなければならないわけではないと思います。
人里の身近な環境は、もとより、人の気配のない山奥の清い気とは違っているけれども、それでも、できるだけ清く保たれた場所で、お茶の木の力に任せて育った葉を、適切に作り上げるならば、心身を開き緩めて落ち着かせるお茶になることでしょう。一方で、秘境にあっても、人がお茶の木の力を超えた生産を求めるならば、そのお茶は秘境の気を十全に表すことはできないのではないかと思います。
お茶の場の中のお茶を大切にするならば、もっともっと、人はお茶からギフトを受け取り、またお茶に人が寄り添うことができるのではないか・・・。
お茶を含めた農業の現場で、数十年前には思いもよらないような肥料や薬剤が使われ大量生産が行われている現代にあっては、お茶を十全に心身で感じ、それが持つ正負のメッセージを受け取りながら、お茶と人とのつながりをもう一度問い直すことが大切なのではないか・・・。
宋さんの言った「お茶は、人間が与えたものを、人間に与え返す」という言葉を思い出しながら、そんなことを考えています。
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意味と味わい
http://xiaoxiang.exblog.jp/16710847/
2012-01-01T00:00:00+09:00
2012-08-29T11:51:00+09:00
2012-08-29T10:21:51+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
そのお言葉を聞いて、とてもうれしい気持ちになりました。
気仙茶に出会った頃は、「無肥料」「在来種」「古木」に魅かれ、その清らかな味わいに魅かれました。それは、それまでご紹介してきた千年古茶にも通じるお茶の特性でした。
しかし、気仙に通うにしたがって、気仙茶の持つ別な側面-とても大切なこと-を知り、それにどんどん魅かれていきました。このことは、今までご紹介してきた中国のお茶には感じたことのないことでした。
それは、気仙では、自分が飲むために、家族に飲ませるためにお茶を作る、ということです。
また、そのお茶の木は、家のご先祖様が植えたものを引き継ぎ守っている、ということです。
その土地の暮らしの中でお茶を作り、暮らしの中でお茶を飲んでいる、ということです。
自分の家の、ご先祖様が植えた茶の木から、自分で葉を摘んで茶を作り、それを淹れて飲み、人に淹れて差し上げる。そのお茶の味わいは、その人にとってかけがえのないものです。
そのお茶の意味は、その人だけの、固有のもの。他の人にとっては、決して同じ意味は持ちえないもの。その点で、絶対的なものであり、一切の比較は意味をなさないものだと思います。
「無肥料」「在来種」「古木」・・・は、言ってみれば「流通可能な価値」なのに対して、「自作のお茶を自分で淹れて飲むこと」や「自分のご先祖様の植えたお茶の木から作ったお茶を飲む」ことなどは、その人固有の、「流通不可能な価値」です。
しかし、いくら流通不可能な固有の価値があっても、「そのことと、美味しいかどうかは別のこと。」「客観的に、味わいを比較しなければ、ひとりよがりのものしかできないし、そこに技術的な進歩もない。」という声もあるでしょう。
そうかもしれません。ひとりよがりでは、他の人に評価され求められるものはできないかもしれないし、自分自身でも「うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ」と思っているところもあるかもしれません。
それでもなお。
自分で作ったそのようなお茶を、買ってきたお茶と並べて飲み比べたら、甘い苦い渋い青いなどなどは比較できても、自分が作ったという意味の絶対性はゆるぎないし、どんな高級茶を持ってきたとしても、その高級茶は自作のお茶が持つ意味を代替することはできません。
うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ、と思ったら、自分が好きな味になるように試行錯誤したらよいのです。自分が楽しむものだからこそ、本当は、自分の好みに合わせて作ることができるはずです。
自家用茶の持つ意味合いは、私が、亡くなった祖母の作った梅干しを食べる時に感じる意味や、自分の畑のジャガイモが、芽を出し成長し花をつけるのを季節とともに愛で、根元の土に手をつっこんで探り掘り上げたものを蒸して食べる時に感じる意味が、私だけの意味であるのと同じことです。
あるいは、茶摘みボランティアで来てくれた知人たちとの時間を思い起こしながら飲むお茶に感じる意味も、私だけの意味であり、またボランティアの一人一人が自分だけの意味を感じていることでしょう。
意味は、その人固有のもの。代替不可能で流通不可能なもの。
でも、他人には全く関係ないものなのでしょうか。
以前、茶摘みボランティアが摘んだ葉で作ったお茶を、他県からのお客様にお出ししたら、お茶でこんなに感動したのは初めてだ、とおっしゃってくださいました。
作った者にとって意味深いこのお茶は、その意味を伴って、液体となってお客様の体に流れ込んだのではないか、と思いました。
意味、は、思い、でもあります。
どんな意味がありどんな思いを込めたか、を、お茶は常に伴っているのだと思います。
このごろ、商品に物語が必要だ、などと聞きます。
やはり、商品の持つ「意味」を問うているのでしょうけれど、「意味」さえも商品として消費しようとしているのか、と、少し心配になります。
お茶が持つ「意味」が、消費に終わらず、飲む人にとってもまた「意味」となるというのは、どういうことか。
星野道夫さんのエッセイのワンフレーズ-美しい風景を見て、感動したら、その感動を伝えるためにどうするか。それは、感動して、自分が変わっていくことだと思う-を思い出します。
やっぱり、お茶が持つ意味を受け取り、飲む人が変わっていくこと、なのだと思います。
飲む人が、内側に、深く降りていくというか。
それは、流通、と呼ぶより、意味が意味を産んでいく連環、と呼びたいような気がします。
あなたが飲んでいるお茶は、どんな「意味」を持っていますか。
また、そのお茶は、あなたの中でどんな「意味」を産んでいますか。
冒頭の、先生がおっしゃった「お茶と人が一緒にいるお茶は、味云々は関係なく、人を幸せな気分にしてくれるのではないか」ということを思い出しながら、考えたつれづれ茶論でした。
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お茶について、書いています!
http://xiaoxiang.exblog.jp/12978629/
2011-02-24T11:45:00+09:00
2012-04-10T15:31:41+09:00
2011-02-24T11:45:54+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
後ろのほうに格納し、エントリーをまとめました。
しゃおしゃんがお茶づくりで大切に思っていること
お茶の葉がお茶になるまで その1 茶湯は茶葉と水からできる
お茶の葉がお茶になるまで その2 お茶を淹れる気持ち
お茶の葉がお茶になるまで その3 お茶を飲む人のコンディション
お茶の葉がお茶になるまで その4 お茶を飲む場
お茶の場における茶葉の現代的意義 これから書きます
長いです。くどいです。
今、お茶について思うことをまとめたら、こんなんなってしまいました。
気が向いた方、ご覧くださいましたら幸いです。
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お茶の葉がお茶になるまで その2
http://xiaoxiang.exblog.jp/12961037/
2011-01-01T00:00:00+09:00
2012-04-10T15:33:22+09:00
2011-02-22T14:30:52+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
お茶を飲むとき、そのお茶(茶湯)は茶葉と水(湯)から出来上がっています。
水を扱う人(お茶を淹れる人)の心持ちと、水質やお茶の味わいには、関係があると感じています。
このことについては、お茶の仕事を始めてから、何度か強く意識することがあったからです。
一つのエピソードは、ある小学校に呼ばれて、お茶のお話をしたときのことです。
やかんに作っていったお茶を、茶海(ピッチャー)に分けて、二人の子供さんに茶杯に注いでもらい、子供と大人6人で、二人の注いだお茶を飲み比べましたら、なんか違うようだ、となったのです。
次に、今度は一人の子供さんに、やかんから同じお茶を入れた二つの茶海を使って、それぞれ六つの茶杯に注いでもらい、飲み比べました。1回目はとても緊張して注ぎ、2回目はだいぶリラックスしたようでした。すると、さっき以上にはっきりと、1回目と2回目のお茶は違うようだ!となったのです。2回目の方が、口に含んだ瞬間にとてもまろやかだ、と。
飲み比べた人々は、ブラインドで飲んだわけではないので、知らず知らず状況に影響されていたかもしれません。しかし、それを含めたとしても、予想をはるかに超えた違いを感じて、皆さん驚かれたようでした。
これは、茶海を持って注いだ人の気持ちが、茶湯に大きな影響を与えたからだと、思うのです。
注ぐ動作によって(スムーズに注ぐかジャバジャバ注ぐか、など)、物理的に水が影響を受ける面もあると思いますが、ま、その動作にも、気持ちは大きく影響するものだと思います。
水質のこと、道具のこと、は、お茶の味をきめる大きな要素になってくると思います。
しかし、暮らしの中で用意できる水や道具が、常に理想的なものとは限らないかと思います。
そんな中にあっても、淹れる人の気持ちで、味わいが変わるとしたら、そこに面白みと可能性を感じます。
きっと、より美味しい水になるように働きかける、心の置き方があるのだと思います。
そして、一人ひとり、自分の「美味しい水」を追求したとき、やっぱりその美味しさは一人ひとり違うものになるのではないでしょうか。
そう思うと、何かとても励まされる気持ちになります。
さて、もしも、全く同じ「茶湯」が口まで運ばれてきたとして、それを飲み込んで感じる味わいは人によって場によって、同じものになるのでしょうか。そこには今度、お茶を感じる主体の問題が立ち上がってくると思います。
お、だいぶ長くなってしまいましたね。では、続きは後日。
お読みくださり、ありがとうございました~
(実は、なんでこんなに文章を書いているかというと、他の原稿を書いた勢いが残っているのと、そこからの逃避?のためにあれこれ考えていたからなんですね~(笑)。でも、せっかくだから、まとめておきたくなってきました。お付き合いいただき、ありがとうございます。次回もお付き合いよろしくお願いします♪)
(2011/2/22 しゃおしゃん)]]>
しゃおしゃんがお茶づくりで大切に思っていること
http://xiaoxiang.exblog.jp/12939722/
2011-01-01T00:00:00+09:00
2012-04-10T15:32:55+09:00
2011-02-20T10:33:55+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
先日、コメントで質問いただいた件、お返事を書いているうちに熱く長くなってしまいまして、
記事でアップすることにします。
なぜ長くなったか?と言いますと、それは、このご質問が、しゃおしゃんがお茶の品質で一番大事に思っていること、に関わることだったから、そして、それを最近のブログではご説明してなかったなあ、と思ったからです。
(いや、耳にタコができるくらい聞いている、という方もいらっしゃいましょうけれど・・・。ま、その時々で微妙に違うものですから、「今」のお答え、ということでご容赦ください~♪)
というわけで、今考えている、お茶の品質で大事に思っていること、について、皆様にお読みいただければありがたいです。長いっすから、お時間のある時にでも。
(兎さんからのコメント)
そういえば、味としてはまあまあよいお茶、香りもまあまあ良いお茶でも、
飲んだ後にどうも舌や唇の渇く感じの残るお茶と、
逆にしっとりもっふりとした感じの残るお茶がありますね。
もしかしたら先日のお茶会での舌で感じるお茶談義、
人によって感じ方の差はあれど、多くの方がお茶に対して
実はなんらか感じていらっしゃる事なのかもしれないですね。
ちなみに善隣館お茶会で頂くお茶はたいてい潤います^-^
(しゃおしゃんからのコメント)
兎さま、コメントありがとうございます!
舌や唇の渇く感じ、しっとりもっふりとした感じ・・・
それから先日は、お茶の会で、唾液がどこから湧き出てくるか、の話もありましたね。面白いですね!
この方面のお話、熱く語っちゃいますよ~♪♪♪
長くなりますが、お許しを。
渇く感じは、まず、火入れ具合と関係があるように思います。火入れが強い・弱いに関わらず、火入れの具合によっては渇く感じがいつまでも残ることがあり、その性質を「燥」と呼ぶ事があります。
それから、その直前に飲むお茶との火入れ具合の落差から影響されることもある気がしますし、もっと広げれば、飲む人の飲食習慣や体質も影響していると思います。
渇く感じ、潤う感じ、というのは、「味・香り」とは別にある、お茶の大事な側面だと思います。
更に、体全体で感じる、飲み心地、飲後感、というのもあると思っています。それは、口、鼻、胃腸、背中、頭、肩、足・・・トータルで感じていくものです。
漢字で表現すると、どこにも「脹」(張った感じ)がなく、「順」(スムーズにお腹に落ちていくこと、吸収される感じがすること)で、「開」(胸が開くような感じがすること)または「沈」(下腹部に落ち着く感じがすること)であること、そして、お茶が「清」(清らかなこと)または「涼」(温度の高低ではなくて、強いて言えば清らかで心地よいこと)です。
私としては、このトータルの飲後感、を一番大切に考えています。それも、あえて言えば「私にとって」の飲後感、なんですよね。 というか、どこまでも、感じる主体としての「私」という限定を離れることはできません。
ただ、その飲後感は、私の場合、どうやらお茶の木の育つ環境と、焙煎を含めた製茶方法で決まってくるようなのです。私という人間の感覚が、お茶の木の育つ環境をお茶という液体を通して感じている、ということが、なんというか、とても面白いことだと思っています。そこに、大きく言うと、私の内なる自然と外の自然との交歓のようなものを感じます。
さて、気持ちよい環境で育ったお茶が、私の身体に気持ちよく取り込まれていくまでには、もう一つ、製茶・焙煎という技を経るのも、面白いところです。同じ生葉でも、あるいは、同じ荒茶でも、その後の処理で、飲後感が違ってくるからです。
焙煎中も焙煎後も、納得いくかどうか、を、「私」の全身を通して判断しようとしています。身体の感覚をリトマス試験紙にしているような感じです。単に、ある性質を持ったお茶に身体が慣れただけかもしれませんが、これはもう、手のひらや頭や胸や丹田で感じているものです。(ちなみに、ライブで音楽を聴いたり、展覧会を見たりした時や、ご飯を食べる時に、同じように身体で感じていることがあります。)
その際に、「こういう味わいにしよう」とかはありません。ただただ、お茶の出す蒸気?気?に寄り添って、「今の私」が心地よい状態をつかもうとするだけなのです。
体質も飲食習慣も違う、私以外の人が、どう感じてくれるのか、は、天に任せる、というところですが・・・。ま、何かを作るって、そういうことなんだと思います。
それだけに、美味しい!と言っていただくと、とてもうれしいですし、
もちろん、違う身体、違う感覚を持つ人間同士、「これは合わない」となるのも納得です。
さて、ここまではお茶屋が作り上げる茶葉(茶乾)までの品質のお話でした。
それがお茶という飲み物になってそれを飲む・味わうまでには、また別なお話がありますね。
せっかくだから、それも一気に、次のエントリーに書いてみたいと思います。
以上、長々とお読みいただき、ありがとうございました~!
そして、兎さん、私に火をつけるご質問(笑)、ありがとうございました~!!
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お茶の葉がお茶になるまで その1
http://xiaoxiang.exblog.jp/12960095/
2011-01-01T00:00:00+09:00
2012-04-10T15:32:25+09:00
2011-02-22T11:25:37+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
雪原は白くても、空も風も、もう春の色ですね。
午前中のしゃおしゃんサロンブースは、サンルームになっていて、少しのひなたぼっこでも体が温まりました。
さて、お茶づくりのお話の次は、その先のお話を。
これまた、長くなりそうですが、どうぞよろしくお願いします。
「お客様が、同じ茶葉をお求めになったとしても、淹れて召し上がるお茶の味は、皆さん全て違う味だと思います。」という話をよくします。そうかもな~と皆さんも思われますか。何が、味を違えていると思いますか。
「淹れ方が下手だから」とおっしゃる方も多いですね。
でも、淹れ方だけの問題ではないと思う方もいらっしゃると思います。
私は今、「物質的な違い」と「感じる主体のコンディションの違い」があるのでは、と思っています。
ちょっと面倒くさい書き方になりますが、ご容赦ください。
まず、物質的な違い、について。
お茶を飲む場合、その液体は、乾いた葉の持つものを、水(場合によっては酒など他の液体もありますね)に溶け出させて作るものですね。
ま、急須にお湯を差して淹れる場合も、茶碗に直接茶葉を入れて湯を差して飲む場合も、はたまたペットボトルの水に茶葉を入れる水出しでも、茶葉に水を差す(茶葉を水に浸す)ことで抽出する方法ですよね。
茶葉が同じ場合、抽出したお茶(ここでは便宜上、水出しも含めて「茶湯」としましょう)の味わいを違える要素は、「水質」と、「抽出」になると思います。
抽出は、温度、時間、圧力、水流などとともに、水質(含まれるミネラルなどなど)も影響するでしょう。
水質は、水の由来(水道水、井戸水、湧き水、ミネラルウォーター、汲み置き水、浄水処理をした水など)による質とともに、水を沸かす道具(土瓶、ステンレスやかん、ガラス器、鉄瓶など)によっても変わってきます。
それから、抽出に使う道具(茶壷とか蓋碗などなど)の質(素材(たとえば土)、釉薬、焼成具合、形、使い込んでの変化、などなどなど)でも水は変わると思います。
そして、茶湯が口に入るまでに接する器全てが、水(ま、お茶自体にも)に影響していくと思います。
もしかすると、器を作る人の心持ちまでも。
あ、大事なことを書き忘れていました。
その水を扱う人(お茶を淹れる人)の心持ち、も大きく水に影響していくのではないか、と思います。
むむ、長くなったので、続きは次のエントリーへ~
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お茶の葉がお茶になるまで その4
http://xiaoxiang.exblog.jp/12978545/
2011-01-01T00:00:00+09:00
2012-04-10T15:34:12+09:00
2011-02-24T11:33:20+09:00
xiaoxiangtea
つれづれ茶論
材木町のしゃおしゃんにいらっしゃるお客様で、この方と一緒だとお茶が美味しく感じられる、というお客様がいました。
私を含めて、同席した他のお客様も口々にそうおっしゃるのです。
その方の雰囲気、お茶を愛しむ様子が、その場の空気を作り、それがそれぞれ感じる「主体」たちに影響しているのですね。
素敵な茶席に参加すると、器やしつらえ全てから、もてなしの心を感じて感謝の気持ちが沸いたり、美しいものにうれしさや心地よさを感じたりして、そのような心情を持ってお茶と向き合うことができます。
その場に集う人の心情が相互に影響しあうでしょう。
亭主に淹れられたお茶自体もまたその人の心身に入り込み影響するでしょう。
その「場」と「茶湯」に外からも内からも刺激され、心地よく解放された個々人が、また場に影響を与え・・・
こうして、フィードバックを繰り返し、お茶の場がより高まっていくことでしょう。
そう、お茶を飲むことはライブです。
その場限り、一回性のものです。
もっとも、日ごろからの、集う人相互の関係性や、主客の関係性も、その場に影響してくるでしょう。
逆に、お茶の場で亭主が心を込めて淹れた茶湯が、客人の心身にダイレクトに影響し、思いを伝え、
日常の関係性を変える力にさえなるかもしれません。
数人で集う場で、ひとつの急須のお茶を分け合うということが、一体感を醸成し、それが人の心を支え、お茶の場を変え、さらにその人の日常を変えることもあるかもしれません。
また、お茶の場は、複数の集いだけに限りません。
一人で淹れる場合も、自分に心を込めてお茶を淹れることで、自分を大切にする思いが伝わるかもしれませんし、お茶を作った人やお茶の木やそれを育む自然との一体感が心を支えるかもしれません。
一人であっても複数であっても、お茶を飲む場は、参加する人とお茶がその空間と時間に催すライブであり、一回性のものだと思います。
ところで、私たちは、美味しいお茶を飲みたいためだけにお茶を飲むのでしょうか、お茶の場を作るのでしょうか。
お茶の場で心が開かれていったとき、えもいわれぬ一体感や圧倒的な幸福感を感じることがあります。
茶湯、器物、用意された空間、しつらえ、外に見える景色、予期せぬ出来事、そして人・・・。
それらが総合されて、その場その時でしか感じられないもの。
ただ、それを感じたことが日常を支えてくれるようにも思うのです。
お茶を飲むというのは、その愛すべき一回性を楽しむこと、一回性を生きること。
お茶の味そのものを超え、「お茶の時間・お茶の場を生きる」ことこそが、お茶を飲む意味なのではないかとも感じられるのです。
そして、お茶の時間を生きることは、とりもなおさず、日々を生きることにつながっていく・・・
そこにまた、終わることのないフィードバックが続けられるのでしょう。
お茶の「味」を超える。
でも、一方で、そこにはお茶がしっかりとなければならない、と思います。
・・・あ~、わけのわからないことになってきました。
もうひとつ書きたいことが。
あと1回で完結します。
次は、「お茶の場における茶葉の現代的意義」、についてです。
あ、この怒涛のお茶論エントリー、どこかに格納しますね。
このエントリーばかりだと、ご覧くださる方もぐったり疲れさせてしまいますね、きっと。
たまに読みたくなった時に開けるくらいがちょうどよさそうです。
(2011.2.24 (2.25加筆) しゃおしゃん)
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