遠野文化フォーラムー伊能嘉矩生誕150年ーに行ってきました。 |

ものすごく長文になりました。自分のためのまとめ、ですが、よかったらお読みください。
伊能嘉矩は、遠野の出身の人類学者です。日本統治が始まった台湾で、それまでにほとんど詳しく調査研究されていなかった原住民族の調査を手がけ、また、遠野に戻ってから、郷土の歴史と民俗を一体的に研究しました。「遠野物語」を出版する前年に柳田国男が遠野を訪れた際に嘉矩と会い、語り合ったそうです。没後、柳田国男が顧問となり「伊能先生記念郷土学会」が設立され、遺稿である「遠野方言誌」「台湾文化誌」が出版されています。
嘉矩は、人類学を、大学ではなく、書物から、また、人類学者に直接師事して学んだという独特の経歴を持っています。そして、人類学の実践のため、台湾に渡り、それまでにほとんど詳しく研究調査されていなかった原住民族の調査を手がけました。嘉矩の仕事は、言語や習俗など、人類学に収まりきらない幅広い調査であり、現在の原住民族分類・研究の基礎となっているそうです。
まだ日本の統治が行きわたっておらず、言葉も通じず、首狩りの習俗もあるという原住民族の村での調査でも、嘉矩はなぜか歓待されたのだそうだ・・・と、その村の人がビデオの中で不思議そうに語っていました。
遠野文化フォーラムは、両日とも、遠野文化センターの赤坂憲雄所長が進行する対談がありました。赤坂所長のお話の中で印象に残っているのは、戊辰戦争で負け組となった東北・・奥羽越列藩同盟の士族の中から、遠い南の島である、台湾、奄美、石垣等に渡り、現地の人々の思いを汲み、歴史に残る活躍をした人物が出ている、という指摘でした。「負け組としての痛みを持つ者だったことが無関係ではないのではないか。支配を受けている土地の人々の痛みを理解することができたからではないか」というようなことをおっしゃっていました。(私の聞き取ったこと、なので、言葉やニュアンスが正しくないかもしれませんが)
水沢出身の後藤新平が台湾総督府民政長官だった頃、その下にたくさん東北の若い士族が集まった、という話もあり、興味深かったです。
二日目の対談は、台湾出身の伊能嘉矩研究者で翻訳家の女性、邱淑珍さんと赤坂所長とで行われました。とても物腰柔らかな邱さんは、確かな日本語で、嘉矩の人となり、など、お話ししてくれました。
会場では、台湾の観光パンフレットも配られ、対談の最後には、台湾の温泉のことや、邱さんのお勧めの台湾観光スポットの話になりました。
最後の最後に、邱さんの言葉に衝撃を受けることになるとは、思いもよりませんでした。
邱さんは、お勧め台湾観光スポットの最後に、台湾中部、そして「霧社」を挙げたのです。台湾で最大の抗日事件として知られる「霧社事件」の場所をお勧めに挙げるとは・・・珍しいことだな、と思いました。
続いて邱さんは「遠野物語の序文の『願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。』と言う言葉は、これは霧社事件のことを言ってますね」と、さらりとおっしゃったのです。気をつけていないと聞き逃すほどさらりと。
しかし、会場からの質問で、そこをちゃんと聞いていた人が、その意味を質問してくれました。そこで初めて、邱さんは、霧社事件について、詳しく説明してくれました。日本統治下の「模範村」とされた霧社で、日本の警察とタイヤル族の若者との諍いから端を発して、日本人がタイヤル族に襲われ143人が亡くなり、それを機に日本軍が大規模に鎮圧した、ということ。そしてこの霧社事件を題材とした台湾の映画「セデック・バレ」を紹介してくれました。
この対談の中でも話題になっていましたが、柳田国男は、日本統治初期の台湾を訪問しています。また、台湾統治について様々な文献や、新渡戸稲造はじめ関係者との交流で認識を深めていました。台湾の山地に住む原住民族が日本に抵抗しながら支配されていく様子もよく理解していたと思われます。
実際は、遠野物語が発行されたのは、霧社事件よりも前だったはずですが、平地人と対立する概念「山人」は、遠野郷の山人であると同時に、台湾の高地に住む原住民族のことでもあった。平地人、とは、蝦夷を支配して山に追いやった人々、あるいは、明治以降の近代化した人々、であると同時に、台湾を支配する日本人のことでもあった・・・。
「山人」と「平地人」は、幾重にも意味を持ち、自分に向けられた言葉となりました。
「台湾は親日」として、気軽に「癒されるために」台湾を訪れる日本の観光客が増えています。私にもそんな気分があります。でも、もっともっと、訪れる側の日本の人々は(もちろん私自身も)、台湾の歴史、台湾との歴史を知らなければならない。気軽な台湾旅行のブームに一石を投じる言葉をいただいたと思います。
邱さんのもう一つの言葉も、深い意味を持って思い出されます。「私たちは、中国の歴史を押し付けられてきましたが、台湾の歴史として、原住民の歴史を学ぶ必要があることに、ようやく気が付いた。その時に拠り所となったのが、伊能嘉矩の研究だった」日本統治、国民党支配、中国との関係の中で、自分たちは何者か、を、問わざるを得ない状況に置かれ続けてきた台湾の人々の、もがき、から、自分も学ばなければならないのではないか、という気持ちがします。
さて、岩手に住む私達が学んできた歴史とはなんでしょうか。一つの日本、の歴史を押し付けられてはいないでしょうか。この地には、抵抗の末に支配された人々がいました。岩手の歴史、私達の歴史、とは何か、私は何者か、を、問い直すきっかけになりそうな会でした。