2015年 01月 01日
野生茶を飲む メモ |
読みやすさを考えずに書いた、メモ的な文章です。ご興味があれば・・・
<清らかなお茶に、心身が整えられた>
先日の善隣館茶会で、宋さんの雲南野生茶を久々に淹れました。1年2か月ぶりのことです。
茶壷から流れ出る茶湯を見て、なんて美しいんだろう、と心が吸いこまれました。
まるで、深山の清冽な湧水の流れを見ているようでした。
ご参加の皆様は、既に、静まり返っています。野生茶への期待もあるのだろうけれど、それだけではないように思います。野生茶自体が、場を静寂に導いているのではないでしょうか。
皆様の聞香杯に注ぎ終え、どうぞとおすすめします。立ち上る香りは、柔らかく清く力強い。体の中が動き始める。背骨を下がりながら背骨周りを内圧で開いていき、命門を開こうとする。私は下から丹田へと持ち上げる。丹田で上からと下からの気がぶつかり、ボッと熱くなり熱が帯脈に広がる。汗が出てくる。一方、調子の悪い鼻周りでも、眉間の奥、副鼻腔が動いてくる。詰まりを流そうとしているように感じました。
場は、あくまでも静寂。それぞれがご自分のペースで香りを聞いたり杯の茶を飲んだり。というか、香りを聞き終えた後、あるいは、茶を飲み終えた後の、瞑想をするように目を閉じていらっしゃる時間が長く続いています。
ふっと我に返ると、場は一層落ち着いています。それぞれに、このお茶を飲んだ感動というようなものを抱いているように感じます。私から、お茶を飲んでの自分の感覚を少し話すと、「傷めていた背中が、痛くなくなった」(50代女性)とか「私、手がいつも冷たいんだけど、ほら、暖かくなってるの。たまげたわ。」(80代女性)との声も上がりました。他の方々も、温まってきた、などとおっしゃりながら、ニコニコしています。
<静寂をよぶ茶>
ある回では、初めてのお客様が、席に着いてからずっと、お話が止まらない感じでした。1番目2番目のお茶でも、頭の中はお話で一杯で、静まりませんでした。私も、お話を受けながら、会を進めていきました。
でも、この野生茶は、他の同席のお客様は皆じっくりと楽しみたいだろう、と思い、淹れ始める前に、お話ししていたお客様に向かって申し上げました。「このお茶は、1年に一度くらいしかお持ちしないお茶です。雲南の野生のお茶です。お茶の味わいを存分に感じるには、静かに飲むのが大切だと思っています。同じお茶でも、テレビを見ながら飲んだ時には感じられない味わいが、静かに飲むと感じられることがあります。このお茶の味わいは存分に感じたいので、ご一緒に静かに飲みましょう」。私の気持ちをわかってくださり、お話は止みました。お茶を味わいながら、落ち着いた静かな時間が流れました。ただ、その方は、話を制止されて気分を害していらっしゃるかな、それとも、話したくて仕方がないが我慢していると言う感じかな、と思い、様子を拝見してびっくりしました。先ほどまでの雰囲気とは全く違って、お茶を飲みながら静かに遠くを見るような表情をしていらしたのでした。その様子は、静まり返っていました。
<茶からいただいた無償の愛~茶の葉は自分の命を投げ出して、飲み手の心身を救ってくれる>
この日、野生茶を淹れながら、つくづくと感じたことがあります。それは、お茶に対しての感謝です。
このお茶を飲むと、なぜか、体が温まってきたり、整体されるように開いて来たりほぐれたりする。茶の葉の力なのだと思う。お茶を淹れる者としては、ただひたすら、この茶の葉の力や味わいを損なわないように、飲み手に届けることだけを考えるべきだと思う。
私は、体が温まる、とかほぐれる、というのは、体が本来の巡りを取り戻すことだと思う。巡りを取り戻すというのは、あるべき姿勢となり心持ちになること。そうすると体も心もとても楽になる。このお茶を飲むことで、体が温まりほぐれる。お茶があるべき姿勢を思い出させてくれたのだ。あるべき姿勢というのは、お茶を飲まなくても、気功をしたりヨガをしたり、きっといろいろな方法でたどり着ける。普段から気の通りがよい人、本来の姿勢となりよく脱力して気が充実している人は、このお茶を飲んでも特別体の変化がないかもしれない。しかし、多くの人は、どこか巡りが悪かったり固まっていたり姿勢がゆがんでいるのではないか。何かで正してもまたゆがんでくる。お茶を飲むだけでそれが正されることはないが、ゆがみに気づいて直す機会にはなる。お茶が気づきを与えてくれているのだ。
しかしこういうお茶は多くはない。命の力が強いもの、命の力が何かに損なわれていないもの、そして体にすっとおさまるような作りをされたお茶だけが、このような心身の変化をもたらす。
茶の葉は、茶の木から芽吹いて生き生きと伸びようとしていたところを摘まれた。そのお茶の命の力、が、私の体に入り、私の体を温め歪みを直してくれる。茶の葉は、自分の命を投げ出して、私に教えてくれている。茶の葉からの無償の行為を思う時、ただただ、茶の葉に感謝する以外方法がない。ただただ、茶の葉の愛を受け取るしかない。
茶の葉に報いるとしたら、それは、茶という存在に対して、敬意をもって接すること。そして、茶からいただいた愛に感謝しながら、よりよく生きて行くこと。
私は、お茶と出会い、お茶と縁を結んだと思う。よしもとばななの小説「アナザー・ワールド」に、「植物は、ひとつの種との関係を確立すると、その種に関してはずっと仲良くいてくれるようになる。・・他の土地に生えているその植物でも、連絡が取れているから、なにも変わらない。だからこそ長く生きている木はものすごい力を持つようになる」と言う言葉があった。それと、小泊先生がおっしゃったように、お茶は危機になると誰かに憑りつく、というお話が、どこか符号するように思い出されました。私が気仙茶のことに関わっているのは、気仙の人々のお役に立てれば嬉しいと思う気持ちももちろんあるけれど、それと同時に、茶という植物と私との間の縁というか関係の中で、せめて何かできることをさせていただきたい、という気持ちでもあるように思います。(2015.2.18)
<清らかなお茶に、心身が整えられた>
先日の善隣館茶会で、宋さんの雲南野生茶を久々に淹れました。1年2か月ぶりのことです。
茶壷から流れ出る茶湯を見て、なんて美しいんだろう、と心が吸いこまれました。
まるで、深山の清冽な湧水の流れを見ているようでした。
ご参加の皆様は、既に、静まり返っています。野生茶への期待もあるのだろうけれど、それだけではないように思います。野生茶自体が、場を静寂に導いているのではないでしょうか。
皆様の聞香杯に注ぎ終え、どうぞとおすすめします。立ち上る香りは、柔らかく清く力強い。体の中が動き始める。背骨を下がりながら背骨周りを内圧で開いていき、命門を開こうとする。私は下から丹田へと持ち上げる。丹田で上からと下からの気がぶつかり、ボッと熱くなり熱が帯脈に広がる。汗が出てくる。一方、調子の悪い鼻周りでも、眉間の奥、副鼻腔が動いてくる。詰まりを流そうとしているように感じました。
場は、あくまでも静寂。それぞれがご自分のペースで香りを聞いたり杯の茶を飲んだり。というか、香りを聞き終えた後、あるいは、茶を飲み終えた後の、瞑想をするように目を閉じていらっしゃる時間が長く続いています。
ふっと我に返ると、場は一層落ち着いています。それぞれに、このお茶を飲んだ感動というようなものを抱いているように感じます。私から、お茶を飲んでの自分の感覚を少し話すと、「傷めていた背中が、痛くなくなった」(50代女性)とか「私、手がいつも冷たいんだけど、ほら、暖かくなってるの。たまげたわ。」(80代女性)との声も上がりました。他の方々も、温まってきた、などとおっしゃりながら、ニコニコしています。
<静寂をよぶ茶>
ある回では、初めてのお客様が、席に着いてからずっと、お話が止まらない感じでした。1番目2番目のお茶でも、頭の中はお話で一杯で、静まりませんでした。私も、お話を受けながら、会を進めていきました。
でも、この野生茶は、他の同席のお客様は皆じっくりと楽しみたいだろう、と思い、淹れ始める前に、お話ししていたお客様に向かって申し上げました。「このお茶は、1年に一度くらいしかお持ちしないお茶です。雲南の野生のお茶です。お茶の味わいを存分に感じるには、静かに飲むのが大切だと思っています。同じお茶でも、テレビを見ながら飲んだ時には感じられない味わいが、静かに飲むと感じられることがあります。このお茶の味わいは存分に感じたいので、ご一緒に静かに飲みましょう」。私の気持ちをわかってくださり、お話は止みました。お茶を味わいながら、落ち着いた静かな時間が流れました。ただ、その方は、話を制止されて気分を害していらっしゃるかな、それとも、話したくて仕方がないが我慢していると言う感じかな、と思い、様子を拝見してびっくりしました。先ほどまでの雰囲気とは全く違って、お茶を飲みながら静かに遠くを見るような表情をしていらしたのでした。その様子は、静まり返っていました。
<茶からいただいた無償の愛~茶の葉は自分の命を投げ出して、飲み手の心身を救ってくれる>
この日、野生茶を淹れながら、つくづくと感じたことがあります。それは、お茶に対しての感謝です。
このお茶を飲むと、なぜか、体が温まってきたり、整体されるように開いて来たりほぐれたりする。茶の葉の力なのだと思う。お茶を淹れる者としては、ただひたすら、この茶の葉の力や味わいを損なわないように、飲み手に届けることだけを考えるべきだと思う。
私は、体が温まる、とかほぐれる、というのは、体が本来の巡りを取り戻すことだと思う。巡りを取り戻すというのは、あるべき姿勢となり心持ちになること。そうすると体も心もとても楽になる。このお茶を飲むことで、体が温まりほぐれる。お茶があるべき姿勢を思い出させてくれたのだ。あるべき姿勢というのは、お茶を飲まなくても、気功をしたりヨガをしたり、きっといろいろな方法でたどり着ける。普段から気の通りがよい人、本来の姿勢となりよく脱力して気が充実している人は、このお茶を飲んでも特別体の変化がないかもしれない。しかし、多くの人は、どこか巡りが悪かったり固まっていたり姿勢がゆがんでいるのではないか。何かで正してもまたゆがんでくる。お茶を飲むだけでそれが正されることはないが、ゆがみに気づいて直す機会にはなる。お茶が気づきを与えてくれているのだ。
しかしこういうお茶は多くはない。命の力が強いもの、命の力が何かに損なわれていないもの、そして体にすっとおさまるような作りをされたお茶だけが、このような心身の変化をもたらす。
茶の葉は、茶の木から芽吹いて生き生きと伸びようとしていたところを摘まれた。そのお茶の命の力、が、私の体に入り、私の体を温め歪みを直してくれる。茶の葉は、自分の命を投げ出して、私に教えてくれている。茶の葉からの無償の行為を思う時、ただただ、茶の葉に感謝する以外方法がない。ただただ、茶の葉の愛を受け取るしかない。
茶の葉に報いるとしたら、それは、茶という存在に対して、敬意をもって接すること。そして、茶からいただいた愛に感謝しながら、よりよく生きて行くこと。
私は、お茶と出会い、お茶と縁を結んだと思う。よしもとばななの小説「アナザー・ワールド」に、「植物は、ひとつの種との関係を確立すると、その種に関してはずっと仲良くいてくれるようになる。・・他の土地に生えているその植物でも、連絡が取れているから、なにも変わらない。だからこそ長く生きている木はものすごい力を持つようになる」と言う言葉があった。それと、小泊先生がおっしゃったように、お茶は危機になると誰かに憑りつく、というお話が、どこか符号するように思い出されました。私が気仙茶のことに関わっているのは、気仙の人々のお役に立てれば嬉しいと思う気持ちももちろんあるけれど、それと同時に、茶という植物と私との間の縁というか関係の中で、せめて何かできることをさせていただきたい、という気持ちでもあるように思います。(2015.2.18)
by xiaoxiangtea
| 2015-01-01 12:59
| つれづれ茶論