2012年 01月 01日
意味と味わい |
気仙にいらしたある先生が、「気仙では、お茶やお茶の木と人が一緒にいると感じ」、「このようなお茶は、味云々は関係なく、きっと人を幸せな気分にしてくれるのではないか」と思ったのだそうです。
そのお言葉を聞いて、とてもうれしい気持ちになりました。
気仙茶に出会った頃は、「無肥料」「在来種」「古木」に魅かれ、その清らかな味わいに魅かれました。それは、それまでご紹介してきた千年古茶にも通じるお茶の特性でした。
しかし、気仙に通うにしたがって、気仙茶の持つ別な側面-とても大切なこと-を知り、それにどんどん魅かれていきました。このことは、今までご紹介してきた中国のお茶には感じたことのないことでした。
それは、気仙では、自分が飲むために、家族に飲ませるためにお茶を作る、ということです。
また、そのお茶の木は、家のご先祖様が植えたものを引き継ぎ守っている、ということです。
その土地の暮らしの中でお茶を作り、暮らしの中でお茶を飲んでいる、ということです。
自分の家の、ご先祖様が植えた茶の木から、自分で葉を摘んで茶を作り、それを淹れて飲み、人に淹れて差し上げる。そのお茶の味わいは、その人にとってかけがえのないものです。
そのお茶の意味は、その人だけの、固有のもの。他の人にとっては、決して同じ意味は持ちえないもの。その点で、絶対的なものであり、一切の比較は意味をなさないものだと思います。
「無肥料」「在来種」「古木」・・・は、言ってみれば「流通可能な価値」なのに対して、「自作のお茶を自分で淹れて飲むこと」や「自分のご先祖様の植えたお茶の木から作ったお茶を飲む」ことなどは、その人固有の、「流通不可能な価値」です。
しかし、いくら流通不可能な固有の価値があっても、「そのことと、美味しいかどうかは別のこと。」「客観的に、味わいを比較しなければ、ひとりよがりのものしかできないし、そこに技術的な進歩もない。」という声もあるでしょう。
そうかもしれません。ひとりよがりでは、他の人に評価され求められるものはできないかもしれないし、自分自身でも「うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ」と思っているところもあるかもしれません。
それでもなお。
自分で作ったそのようなお茶を、買ってきたお茶と並べて飲み比べたら、甘い苦い渋い青いなどなどは比較できても、自分が作ったという意味の絶対性はゆるぎないし、どんな高級茶を持ってきたとしても、その高級茶は自作のお茶が持つ意味を代替することはできません。
うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ、と思ったら、自分が好きな味になるように試行錯誤したらよいのです。自分が楽しむものだからこそ、本当は、自分の好みに合わせて作ることができるはずです。
自家用茶の持つ意味合いは、私が、亡くなった祖母の作った梅干しを食べる時に感じる意味や、自分の畑のジャガイモが、芽を出し成長し花をつけるのを季節とともに愛で、根元の土に手をつっこんで探り掘り上げたものを蒸して食べる時に感じる意味が、私だけの意味であるのと同じことです。
あるいは、茶摘みボランティアで来てくれた知人たちとの時間を思い起こしながら飲むお茶に感じる意味も、私だけの意味であり、またボランティアの一人一人が自分だけの意味を感じていることでしょう。
意味は、その人固有のもの。代替不可能で流通不可能なもの。
でも、他人には全く関係ないものなのでしょうか。
以前、茶摘みボランティアが摘んだ葉で作ったお茶を、他県からのお客様にお出ししたら、お茶でこんなに感動したのは初めてだ、とおっしゃってくださいました。
作った者にとって意味深いこのお茶は、その意味を伴って、液体となってお客様の体に流れ込んだのではないか、と思いました。
意味、は、思い、でもあります。
どんな意味がありどんな思いを込めたか、を、お茶は常に伴っているのだと思います。
このごろ、商品に物語が必要だ、などと聞きます。
やはり、商品の持つ「意味」を問うているのでしょうけれど、「意味」さえも商品として消費しようとしているのか、と、少し心配になります。
お茶が持つ「意味」が、消費に終わらず、飲む人にとってもまた「意味」となるというのは、どういうことか。
星野道夫さんのエッセイのワンフレーズ-美しい風景を見て、感動したら、その感動を伝えるためにどうするか。それは、感動して、自分が変わっていくことだと思う-を思い出します。
やっぱり、お茶が持つ意味を受け取り、飲む人が変わっていくこと、なのだと思います。
飲む人が、内側に、深く降りていくというか。
それは、流通、と呼ぶより、意味が意味を産んでいく連環、と呼びたいような気がします。
あなたが飲んでいるお茶は、どんな「意味」を持っていますか。
また、そのお茶は、あなたの中でどんな「意味」を産んでいますか。
冒頭の、先生がおっしゃった「お茶と人が一緒にいるお茶は、味云々は関係なく、人を幸せな気分にしてくれるのではないか」ということを思い出しながら、考えたつれづれ茶論でした。
そのお言葉を聞いて、とてもうれしい気持ちになりました。
気仙茶に出会った頃は、「無肥料」「在来種」「古木」に魅かれ、その清らかな味わいに魅かれました。それは、それまでご紹介してきた千年古茶にも通じるお茶の特性でした。
しかし、気仙に通うにしたがって、気仙茶の持つ別な側面-とても大切なこと-を知り、それにどんどん魅かれていきました。このことは、今までご紹介してきた中国のお茶には感じたことのないことでした。
それは、気仙では、自分が飲むために、家族に飲ませるためにお茶を作る、ということです。
また、そのお茶の木は、家のご先祖様が植えたものを引き継ぎ守っている、ということです。
その土地の暮らしの中でお茶を作り、暮らしの中でお茶を飲んでいる、ということです。
自分の家の、ご先祖様が植えた茶の木から、自分で葉を摘んで茶を作り、それを淹れて飲み、人に淹れて差し上げる。そのお茶の味わいは、その人にとってかけがえのないものです。
そのお茶の意味は、その人だけの、固有のもの。他の人にとっては、決して同じ意味は持ちえないもの。その点で、絶対的なものであり、一切の比較は意味をなさないものだと思います。
「無肥料」「在来種」「古木」・・・は、言ってみれば「流通可能な価値」なのに対して、「自作のお茶を自分で淹れて飲むこと」や「自分のご先祖様の植えたお茶の木から作ったお茶を飲む」ことなどは、その人固有の、「流通不可能な価値」です。
しかし、いくら流通不可能な固有の価値があっても、「そのことと、美味しいかどうかは別のこと。」「客観的に、味わいを比較しなければ、ひとりよがりのものしかできないし、そこに技術的な進歩もない。」という声もあるでしょう。
そうかもしれません。ひとりよがりでは、他の人に評価され求められるものはできないかもしれないし、自分自身でも「うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ」と思っているところもあるかもしれません。
それでもなお。
自分で作ったそのようなお茶を、買ってきたお茶と並べて飲み比べたら、甘い苦い渋い青いなどなどは比較できても、自分が作ったという意味の絶対性はゆるぎないし、どんな高級茶を持ってきたとしても、その高級茶は自作のお茶が持つ意味を代替することはできません。
うちのお茶、うちの野菜、あんまり美味しくないなあ、と思ったら、自分が好きな味になるように試行錯誤したらよいのです。自分が楽しむものだからこそ、本当は、自分の好みに合わせて作ることができるはずです。
自家用茶の持つ意味合いは、私が、亡くなった祖母の作った梅干しを食べる時に感じる意味や、自分の畑のジャガイモが、芽を出し成長し花をつけるのを季節とともに愛で、根元の土に手をつっこんで探り掘り上げたものを蒸して食べる時に感じる意味が、私だけの意味であるのと同じことです。
あるいは、茶摘みボランティアで来てくれた知人たちとの時間を思い起こしながら飲むお茶に感じる意味も、私だけの意味であり、またボランティアの一人一人が自分だけの意味を感じていることでしょう。
意味は、その人固有のもの。代替不可能で流通不可能なもの。
でも、他人には全く関係ないものなのでしょうか。
以前、茶摘みボランティアが摘んだ葉で作ったお茶を、他県からのお客様にお出ししたら、お茶でこんなに感動したのは初めてだ、とおっしゃってくださいました。
作った者にとって意味深いこのお茶は、その意味を伴って、液体となってお客様の体に流れ込んだのではないか、と思いました。
意味、は、思い、でもあります。
どんな意味がありどんな思いを込めたか、を、お茶は常に伴っているのだと思います。
このごろ、商品に物語が必要だ、などと聞きます。
やはり、商品の持つ「意味」を問うているのでしょうけれど、「意味」さえも商品として消費しようとしているのか、と、少し心配になります。
お茶が持つ「意味」が、消費に終わらず、飲む人にとってもまた「意味」となるというのは、どういうことか。
星野道夫さんのエッセイのワンフレーズ-美しい風景を見て、感動したら、その感動を伝えるためにどうするか。それは、感動して、自分が変わっていくことだと思う-を思い出します。
やっぱり、お茶が持つ意味を受け取り、飲む人が変わっていくこと、なのだと思います。
飲む人が、内側に、深く降りていくというか。
それは、流通、と呼ぶより、意味が意味を産んでいく連環、と呼びたいような気がします。
あなたが飲んでいるお茶は、どんな「意味」を持っていますか。
また、そのお茶は、あなたの中でどんな「意味」を産んでいますか。
冒頭の、先生がおっしゃった「お茶と人が一緒にいるお茶は、味云々は関係なく、人を幸せな気分にしてくれるのではないか」ということを思い出しながら、考えたつれづれ茶論でした。
by xiaoxiangtea
| 2012-01-01 00:00
| つれづれ茶論