2011年 01月 01日
お茶の葉がお茶になるまで その4 |
ここからは、お茶を飲む「場」を考えたいと思います。
材木町のしゃおしゃんにいらっしゃるお客様で、この方と一緒だとお茶が美味しく感じられる、というお客様がいました。
私を含めて、同席した他のお客様も口々にそうおっしゃるのです。
その方の雰囲気、お茶を愛しむ様子が、その場の空気を作り、それがそれぞれ感じる「主体」たちに影響しているのですね。
素敵な茶席に参加すると、器やしつらえ全てから、もてなしの心を感じて感謝の気持ちが沸いたり、美しいものにうれしさや心地よさを感じたりして、そのような心情を持ってお茶と向き合うことができます。
その場に集う人の心情が相互に影響しあうでしょう。
亭主に淹れられたお茶自体もまたその人の心身に入り込み影響するでしょう。
その「場」と「茶湯」に外からも内からも刺激され、心地よく解放された個々人が、また場に影響を与え・・・
こうして、フィードバックを繰り返し、お茶の場がより高まっていくことでしょう。
そう、お茶を飲むことはライブです。
その場限り、一回性のものです。
もっとも、日ごろからの、集う人相互の関係性や、主客の関係性も、その場に影響してくるでしょう。
逆に、お茶の場で亭主が心を込めて淹れた茶湯が、客人の心身にダイレクトに影響し、思いを伝え、
日常の関係性を変える力にさえなるかもしれません。
数人で集う場で、ひとつの急須のお茶を分け合うということが、一体感を醸成し、それが人の心を支え、お茶の場を変え、さらにその人の日常を変えることもあるかもしれません。
また、お茶の場は、複数の集いだけに限りません。
一人で淹れる場合も、自分に心を込めてお茶を淹れることで、自分を大切にする思いが伝わるかもしれませんし、お茶を作った人やお茶の木やそれを育む自然との一体感が心を支えるかもしれません。
一人であっても複数であっても、お茶を飲む場は、参加する人とお茶がその空間と時間に催すライブであり、一回性のものだと思います。
ところで、私たちは、美味しいお茶を飲みたいためだけにお茶を飲むのでしょうか、お茶の場を作るのでしょうか。
お茶の場で心が開かれていったとき、えもいわれぬ一体感や圧倒的な幸福感を感じることがあります。
茶湯、器物、用意された空間、しつらえ、外に見える景色、予期せぬ出来事、そして人・・・。
それらが総合されて、その場その時でしか感じられないもの。
ただ、それを感じたことが日常を支えてくれるようにも思うのです。
お茶を飲むというのは、その愛すべき一回性を楽しむこと、一回性を生きること。
お茶の味そのものを超え、「お茶の時間・お茶の場を生きる」ことこそが、お茶を飲む意味なのではないかとも感じられるのです。
そして、お茶の時間を生きることは、とりもなおさず、日々を生きることにつながっていく・・・
そこにまた、終わることのないフィードバックが続けられるのでしょう。
お茶の「味」を超える。
でも、一方で、そこにはお茶がしっかりとなければならない、と思います。
・・・あ~、わけのわからないことになってきました。
もうひとつ書きたいことが。
あと1回で完結します。
次は、「お茶の場における茶葉の現代的意義」、についてです。
あ、この怒涛のお茶論エントリー、どこかに格納しますね。
このエントリーばかりだと、ご覧くださる方もぐったり疲れさせてしまいますね、きっと。
たまに読みたくなった時に開けるくらいがちょうどよさそうです。
(2011.2.24 (2.25加筆) しゃおしゃん)
材木町のしゃおしゃんにいらっしゃるお客様で、この方と一緒だとお茶が美味しく感じられる、というお客様がいました。
私を含めて、同席した他のお客様も口々にそうおっしゃるのです。
その方の雰囲気、お茶を愛しむ様子が、その場の空気を作り、それがそれぞれ感じる「主体」たちに影響しているのですね。
素敵な茶席に参加すると、器やしつらえ全てから、もてなしの心を感じて感謝の気持ちが沸いたり、美しいものにうれしさや心地よさを感じたりして、そのような心情を持ってお茶と向き合うことができます。
その場に集う人の心情が相互に影響しあうでしょう。
亭主に淹れられたお茶自体もまたその人の心身に入り込み影響するでしょう。
その「場」と「茶湯」に外からも内からも刺激され、心地よく解放された個々人が、また場に影響を与え・・・
こうして、フィードバックを繰り返し、お茶の場がより高まっていくことでしょう。
そう、お茶を飲むことはライブです。
その場限り、一回性のものです。
もっとも、日ごろからの、集う人相互の関係性や、主客の関係性も、その場に影響してくるでしょう。
逆に、お茶の場で亭主が心を込めて淹れた茶湯が、客人の心身にダイレクトに影響し、思いを伝え、
日常の関係性を変える力にさえなるかもしれません。
数人で集う場で、ひとつの急須のお茶を分け合うということが、一体感を醸成し、それが人の心を支え、お茶の場を変え、さらにその人の日常を変えることもあるかもしれません。
また、お茶の場は、複数の集いだけに限りません。
一人で淹れる場合も、自分に心を込めてお茶を淹れることで、自分を大切にする思いが伝わるかもしれませんし、お茶を作った人やお茶の木やそれを育む自然との一体感が心を支えるかもしれません。
一人であっても複数であっても、お茶を飲む場は、参加する人とお茶がその空間と時間に催すライブであり、一回性のものだと思います。
ところで、私たちは、美味しいお茶を飲みたいためだけにお茶を飲むのでしょうか、お茶の場を作るのでしょうか。
お茶の場で心が開かれていったとき、えもいわれぬ一体感や圧倒的な幸福感を感じることがあります。
茶湯、器物、用意された空間、しつらえ、外に見える景色、予期せぬ出来事、そして人・・・。
それらが総合されて、その場その時でしか感じられないもの。
ただ、それを感じたことが日常を支えてくれるようにも思うのです。
お茶を飲むというのは、その愛すべき一回性を楽しむこと、一回性を生きること。
お茶の味そのものを超え、「お茶の時間・お茶の場を生きる」ことこそが、お茶を飲む意味なのではないかとも感じられるのです。
そして、お茶の時間を生きることは、とりもなおさず、日々を生きることにつながっていく・・・
そこにまた、終わることのないフィードバックが続けられるのでしょう。
お茶の「味」を超える。
でも、一方で、そこにはお茶がしっかりとなければならない、と思います。
・・・あ~、わけのわからないことになってきました。
もうひとつ書きたいことが。
あと1回で完結します。
次は、「お茶の場における茶葉の現代的意義」、についてです。
あ、この怒涛のお茶論エントリー、どこかに格納しますね。
このエントリーばかりだと、ご覧くださる方もぐったり疲れさせてしまいますね、きっと。
たまに読みたくなった時に開けるくらいがちょうどよさそうです。
(2011.2.24 (2.25加筆) しゃおしゃん)
by xiaoxiangtea
| 2011-01-01 00:00
| つれづれ茶論